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神門(みかど)神社・西の正倉院・百済の里神門神社神門神社は宮崎県の中央部、九州山地の東麓、美郷町南郷区神門にあります。主祭神に大山祀命(おおやまずみのみこと)と百済国伯智王(禎嘉帝)を奉る神社です。南郷村神門の中心部にひっそりとたたずむ神門神社は、周囲を杉や雑木の大木が生い茂る鎮守の杜に囲まれ、地域の人々の厚い信仰によって、守り継がれています。(右の写真:大樹に囲まれた神門神社の境内) 神門神社はこの地に伝わる百済王伝説と密接なかかわりを持ち、百済王の秘宝は千年以上の長い間神社に保存され、地域の人々によって守り継がれているのです。 今にも倒れそうな正殿などの社からは想像出来ない多くの謎とロマンを秘めています。(右の写真は手前が拝殿・奥が正殿:保存のため二重屋根となっている) 一般的に、日本人の古信仰は、人間の神様を山・洞窟・島などの自然に添えて祀り、 神社には神話に出てくる国造りの神を主祭神としているのが普通ですが、ここ神門神社は国造りの神の一人「大山祀命」の外に韓国の百済滅亡の時逃れてきた「伯智王」を奉ってある、珍しい神社です。 同様の伝承を持つ神社に百済王神社があります。 百済王伝説 7世紀、滅亡した百済の王族は日本の奈良地方に逃れ、その後の動乱から更に九州方面を目指した。 途中、瀬戸内海で時化に遭い、日向の国の二つの浜(日向市金が浜、高鍋町蚊口浜)に漂着後、父は南郷村神門、王子は木城町に移住した。 「百済王伝説」詳しくは九州電力小丸川発電所のHPこちらをご覧下さい。 師走まつり 毎年旧暦12月(1月最後の週末?)に行われ、木城町比木神社にまつられる福智王が、美郷町南郷区神門神社の父・禎嘉王に会いに行く伝説を再現したものです。 まつりの1日目は、比木神社を出発したご神体一行は約90kmの道のり を、古式にのっとって神門神社に向かい、神門神社では「上りまし」と呼ばれる壮大な「迎え火」によって行われます。このご神体が御進行されるまつりは御輿ができる以前の習わしと考えられています。 2日目の「お衣洗い」の儀、3日目の「下りまし」の儀では別れの朝に皆で顔にかまどの墨を塗 る「へぐろ塗り」などによって行われる珍しいまつりです。 2006年は1月27日から29日の3日間行われます。 師走祭りはこちらをご覧ください。 神門神社本殿 神門神社は養老2年(718)の創建と伝えられていますが、古代から中世に至る沿革はほとんど不明です。現在の本殿は、棟札より寛文元年(1661)の建立と考えられ、施主は神門郷の海野土佐行正、大工は細島の高木庄吉清次であったとさてています。 本殿は自然石の礎石上に建つ七間社流造(ななけんしゃながれづくり)で、平面は身舎(もや)のうち桁行五間・梁間二間を板敷の内陣(ないじん)となっています。屋根は厚板葺目板打で、正面・背面とも段違いとなっています。 神門神社本殿は簡素で装飾の少ない流造本殿で、類例の少ない平面形式に特色があります。 本殿各部の形式や意匠は、一部に変更はあるが旧規が明らかである。中世的な技法や要素を残しながら近世の手法も備えたところに特徴があり、九州南部における本殿建築の発展を知る上で重要である。と紹介され平成12年12月4日国の重要文化財(建造物)に指定されました。 拝殿は建築物として重要文化財に指定されるほどではないようですが、屋根には右の写真のような鬼瓦があり、何か異国の風情を漂わせています。 銅鏡33面の謎(有形文化財:昭和40年8月17日指定) 神門神社に伝えられる銅鏡は伝世品と認められ、古墳時代のもの4面、奈良時代の唐式鏡17面、藤原時代の品3面、室町時代以降のもの9面です。その中には正倉院の御物(右の写真)、東大寺大仏台座下出土鏡、長屋王邸跡出土鏡、見瀬丸山古墳出土鏡、飛鳥坂田寺跡出土鏡、三重県八代神社、千葉県香取神宮の鏡などに同范鏡(同じ鋳型で造られた銅鏡)を持つことで知られています。右の写真は現在西の正倉院に保管され正倉院の御物と同じ鏡と見なされている「唐花六花鏡」 いずれも倣製鏡(日本で造られた銅鏡)ですが、これほどまとまった数の鏡が1箇所の神社に伝えられていることは、全国的に珍しく、しかもこの鏡を含む全国的な分布状況には特別な事情が想像できます。この地に伝わる「百済王族の伝説」や当時の文化を考える上で貴重な手がかりとされています。 古墳時代前後、銅鏡は祭器や権威を象徴するものとして用られていたものです。後になって徐々に装飾品として使用されるようになります。 馬鈴・馬鐸 馬具の一つであり、馬の頸(首)の胴に近い部分に着ける。騎馬民族が好んで使用し、高句麗や新羅に多く出土し、日本国内でも出土するが数は少なく貴重なものである。神門神社に収蔵されている品は6世紀後半の日本製と言われています。板絵観音菩薩正体1面(昭和40年8月17日県指定有形文化財) 応永8年(1401)に比丘長存(僧侶)が描いたもので、総じて中国風の強い描画であり、花冠やその垂髪など装飾豊で長めの目尻のあがった目鼻立ちにも異風があり、特に細身に立ち上がりの強い開き目の蓮華座の形式はなかなか華やかな趣がある。この板絵は神仏習合資料として注目されるものです。その他沢山の百人一首の板絵が拝殿の壁に描かれています。 大甕(かめ) 1個は須恵器で5世紀後半から10世紀頃までに作られた陶器に近い硬質の土器、技術と職人は朝鮮半島から導入され、当時その人々は「陶部」と呼ばれました。神門神社に収蔵されている瓶は縁のかけ方などに百済の風習が感じられるとして注目されています。(韓国学術調査団) このほか神門神社下の舗場整備工事の時、須恵器の破片が出ていることも朝鮮半島とこの地の関係を考える上で見逃せなことです。 1003本の鉾 神門神社本殿の調査時に内部の天井裏(右)から発見されました。鉾に書かれた紀年銘は、長禄3年(1457)12月19日、天文9年(1540)12月12日・天文13年(1544)12月吉日・慶長9年(1604)12月吉日などとあり、このころ既に師走祭りが開かれていた事を物語っています。(写真の右側は鉾を拡大しています) 古くから百済王族がこの地に移住したという言い伝えは、神門神社の最大の年中行事に「師走祭り」として今もこの地で引き継がれています。 「師走祭り」は、90km離れた木城町比木神社の神・福智王(長男)が神門神社の神・禎嘉帝(父王)を年に一度訪れる形式で行われます。 この祭りは、ご神体と鉾を担いで木城町から美々津を経て南郷村神門神社まで詣で、鉾は神門神社に奉納されてきたようです。 直接ご神体を担いで詣でる祭りの風習は、御輿を担ぐ祭り以前の形態と考えられ全国的にも非常に珍しい事です。このことから師走祭りは無形文化財(記録作成等の措置を講ずべき無形文化財:1991年文化庁)に指定されています。 鉾がこれほど大量に集積されていることは他に例を見ない程で、信仰形態を考える上で貴重な遺物として今後の調査が期待されます。 このような収蔵品の数々は文化財として極めて価値の高いものであり、瓶・銅鏡・板絵など極めて大陸文化の影響が強いことから、神門神社の伝承や地域の伝説が朝鮮半島百済との深い関わりを物語っています。 西の正倉院西の正倉院は神門神社に古代から中世・近世と千年以上に亘り収蔵されていた沢山の文化財を展示収蔵する博物館として建設されました。西の正倉院建設のきっかけは、百済王族の遺品と考えられる神門神社収蔵の古代鏡の中に奈良正倉院南蔵37号鏡と同一の「唐花六花鏡」が存在することからです。(銅鏡の項の写真) 西の正倉院の建築には、国立文化財研究所の学術支援、宮内庁の協力、建設省建築研究所の協力の外、古代建築物の修理や設計に豊富な経験を持つ建築家が参加しました。 造営材には村内はもとより全国にその可能性を調査し、長野県の木曽の国有林材天然桧を調達して建設されました。 西の正倉院は奈良正倉院の図面を基に実物大に再現した本館から外構の門や壁瓦の模様に至るまで天平時代の様式に統一されています。 床下高さ2.5m、全高13m、の建物です。 西の正倉院:年中無休 開館時間 9:00〜16:00 料金大人500円 百済の里百済の館は、日韓友好のシンボルとして神門神社一の鳥居横建っています。建物は、百済最後の都「扶餘(フヨ)」の王宮跡に建つ客舎をモデルに、本場韓国の職人の手により原寸大で復元されました。その中には、百済王朝史蹟のパネルや当時の栄華を物語る装飾品・陶磁器・民族衣装等と現在の韓国の食べ物等色々なものが展示してあります。 お問い合わせ 丹青(タンチョン) 韓国では寺院や博物館などの主要建築物は、カラフルな丹青が施されています。丹青工事は国家資格がないと仕事が出来ないため韓国扶餘から優秀な丹青師7人を招いて「百済の館」・恋人の丘の「百花亭」に丹青を施してあります。丹青工事は仏教の由来から蓮華(レンゲ)や龍などの絵を柱や梁・垂木などに色鮮やかに描くもので、一人前になるまでに15年かかると言われています。色彩は赤・青・朱色など原色八種と合成色五種を用いています。模様は蓮華の花や龍・鳳凰など仏教美術で見られるものばかりで、塗料は韓国独特の材料で木材の保存性がよく、防水性に優れ、約百年は変色しないと言う優れた特性があります。 恋人の丘神門の中心部を見下ろす展望名所、恋人の丘には韓国風東屋の四阿「百花亭」が建っています。百花亭は百済の古都扶餘の落花岩に建ち、サビ城落城のおり百済の女官達が身を投げたと言う悲しいロマンの舞台となった所です。 韓国の百花亭はこちらをご覧下さい。 ここには韓国から日韓友好の証として送られた1対の鐘が付けられています。この鐘は「絆の鐘」と言い「古都百済から百済の里南郷村に送る音」とハングルで刻まれています。韓国では恋人・親子・兄弟姉妹が鐘を鳴らすことにより一層絆が強まるとされています。 恋人の丘には愛を誓う絆の鐘に恋人達が集います。 |