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西都原の前方後円墳と円墳他悠久の時を経て静かに古墳は語る。 古代日向の中心西都原の古墳について、今までに発掘された三十数基の古墳と出土品、その出土品から判った事柄について、西都市考古学研究所日高先生の著書「西都原古墳文化を探る」等に基づき紹介検証していきたいと思います。 東西2Km、南北4Km、標高70mの丘陵(西都原)に311基もの古墳が集まっていること、全国的に非常に希なことだそうです。その種類は西都原のTOPページにも記載しましたが以下の通りです。 ・前方後円墳・・・ 31基(内10基が柄鏡式前方後円墳) ・方 墳 ・・・ 1基 ・円 墳 ・・・279基 前方後円墳は首長墓の基本形として全国で作られていますが、西都原古墳群にある前方後円墳は前期様式の柄鏡式前方後円墳が10基存在していることも大きな特徴です。 柄鏡式前方後円墳は、前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に作られたものと想定されています。 13号墳へ 81号墳へ 169号墳へ 170号墳へ 男狭穂塚・女狭穂塚西都原古墳群を代表する最大の巨大古墳であり、古墳時代日向王国の首長墓と見られています。両古墳は、天皇家祖先のお墓の可能性があるため、宮内庁陵墓参考地に指定され正式な発掘調査は実施されていません、また内部に入ることもできません(年に1度だけ11月第1日曜日に公開されます)。 御陵墓参考地内は樹木が生い茂り古墳の形状すら見分けられないほどです。形状を保つ状態での調査や外形を確認できる程度には整備してほしいところです。(宮内庁のより一層の解放が望まれます) 両古墳は前記の通り御陵墓参考地であるため全く発掘調査できないためその陪塚とされる169・170・171号墳を調査することにより解明が進められています。 写真:男狭穂塚入り口に建つ御陵墓参考地の看板 男狭穂塚高さ19m、主丘部径132m、全長154m、墳丘は3段の大円墳状になっており、2段目の正面には長方形の祭壇が作られ、そこから南に細長い盛り土があり、それを含めると全長219mとなります。周囲は幅20mの壕(周溝)があり、内側は深く外側が浅い2重壕となっています。日本最大の帆立貝式古墳です。 ニニギノミコトの御陵と伝えられています。男狭穂塚は5世紀初頭に建造された西都原古墳群中最大の古墳です。 2004年末から2005年当初にかけて男狭穂塚の前方部と後円部の接続部分のレーザー探査が実施され、男狭穂塚の形状は、全国で最大の帆立貝式前方後円墳であることが実証されました。 写真は男狭穂塚(右側の少し盛り上がった山)と女狭穂塚(左の山) 女狭穂塚高さ14m、後円部径96m、全長176m、3段築成の墳丘と両くびれ部に造り出しを持つ九州では珍しい畿内式前方後円墳、九州最大の前方後円墳です。 コノハナサクヤヒメの御陵と伝えられています。築造年代は男狭穂塚よりやや新しい5世紀前半中葉頃。古墳の周りに幅20mの周溝を持つ形の整った前方後円墳。昭和50年に盗掘にあい、その時円形埴輪の破片などが確認されています。 5世紀初め頃畿内地方では第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の古墳を筆頭に100mを越す巨大古墳が作られ始め、その後日本各地で畿内式古墳が造られるようになったと考えられています。 築造年代は、女差穂塚の方が男狭穂塚より古いという説もあります。 (写真は両墳を表す女狭穂塚前にある模型:左が女狭穂塚右男狭穂塚) 169号墳・170号墳13号墳へ 81号墳へ 169号墳へ 170号墳へ男狭穂塚の陪塚と考えられている円墳、子持家形古墳や舟形古墳など貴重な出土品がある 169号墳 有名な子持家型埴輪や舟形埴輪、衝角付冑形埴輪、眉庇付冑形埴輪、珠文鏡、刀剣類が発掘された古墳、大正元年第1次調査にて最初の発掘調査、平成7年度から平成15年に再発掘調査その後整備され綺麗な3段築成円墳の形に復元されました。(写真は再整備後の169号墳と木に覆われ小山のように見える男狭穂塚) 第2次第3次調査により子持ち家形埴輪・舟形埴輪は、170号墳から出土したことが判明しました。築造年代は女狭穂塚とほぼ同一年代と考えられています。 170号墳(雑掌塚) 13号墳へ 81号墳へ 169号墳へ 170号墳へ 直径45m高さ1.8mの直径に比べ高さが非常に低い特殊な形をした円墳。内部の木館収容部から短甲・直刀8・剣7・鉄族、切り妻造り家形埴輪2・円筒埴輪など多数が発掘されました。 170号墳は男狭穂塚の陪塚です。169・170号墳は西都原最大の円墳で、大正元年に発掘調査され平成15年再発掘調査後整備され綺麗な円墳の形に復元されました。 第2次調査平成16年(2004年)8月から9月、第3次調査平成17年8月から9月が行われ、2005年9月4日現地説明会が行われましたので以下に示します。 第2・3次調査概要は170号墳説明会資料1パージをご覧下さい。 右の写真は大正時代の第1次調査時御掘削痕(中央の深い部分)と第2・3次調査時の掘削状況。 調査トレンチの正確な位置図は説明会資料の2ページをご覧下さい。 今回の調査結果から子持ち家形埴輪、舟形埴輪の破片多数が170号墳墳頂東部から発掘され、今まで169号墳から出土したと言われていた定説は覆され170号墳から出土したことが判りました。(今後東京国立博物館において確認作業を行う事により確定します) 墳頂部平坦面外周において約50cm間隔の円筒埴輪列が発掘され、本古墳の低平な墳丘形状が築造当初からのものであることが確認されました。 墳丘外周に幅8mの周溝も発見され、形状は現状よりかなり大きな円墳です。 子持ち家形埴輪と舟形埴輪(複製)の写真は説明会資料3ページをご覧下さい。 また第1次調査時の写真は説明会資料の4ページをご覧下さい。 以上のことから当HPの記載も上記の通り訂正します。
171号墳171号墳は女狭穂塚の陪塚と言われ西都原古墳群で唯一の方墳です。一辺25m高さ4.5mで二段築成されています。墳頂平坦部は円筒埴輪列が取り囲みその内部に家形埴輪や盾形埴輪が列をなして立てられていました。しかし内部に人を葬った跡は見られません。第一次調査大正元年12月から翌年1月・平成10年から平成12年祭発掘調査整備されました。 墳丘の表面は川原石(葺石)で覆われています。 鬼の窟(いわや)古墳6世紀後半最後の首長の墓とされてる。直径37m高さ7.3mの2段墳丘の古墳で墳丘の周囲に二重の提(土塁)を持っています。土塁は高さ2m〜2.5m幅は基底部9m外側直径は南北71.9m東西73mです。 西都原古墳群では横穴式石室を持つ唯一の古墳 江戸時代後半頃に開口され、その経緯についての資料が残っていないが古くから参道の両側に老松が植えられているなど鬼の岩谷信仰を物語っています。 平成7年度の調査で、石室から組合せ式木棺と推定される鉄釘・耳環・金銅装馬具・須恵器のかけらが出土しました。 その陪塚とみられる205号円墳(径14m・高さ3m)から土器や平成7年の調査で周溝から須恵器(坏、高坏)・土師器(ほじき)等が出土しています。
第1古墳群 西都原古墳群の南東端に位置し、全部で91基、前方後円墳7基・円墳84基があります。築造年代は1号墳が4世紀前半、13号墳が4世紀半ば46号墳は4世紀末、、202号墳は100年以上後の6世紀初頭に場所も西側に離れて築造されています。 1号墳81号墳同様、西都原古墳群の中で最も古いと思われる形の古墳の一つ、1号古墳は全く調査されていません。 13号墳
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埋葬施設(長辺約2m短辺約1m:推定) |
かめ棺(直径50cm程度:推定) |